kunirov’s diary

書きたいこと書いてます

二十歳の門出

今週のお題「二十歳」

 

今年も成人式が全国各所で執り行われて、そこに参加しようがしまいが新成人として「オトナ」認定される男子女子がたくさんいるのだろう。オトナってなんだろう?とかいう疑問はさておき、自分が二十歳を迎えたときはどうだったか。大人になった実感なんてこれっぽっちもなかった気がする。ただなぜか羽織袴姿に妙な思い入れがあって、成人式には衣装を借りて参加したことを覚えている。

 

今思えば、足元がスースーして寒いし、着崩れたら自分で直せないし、慣れない草履は足に合わず鼻緒が痛いし、いいことなんてひとつもなかった気がする。なぜ羽織袴を着たかったのか分からないけど、当時はそういう気分だったんでしょうなぁ。

 

さて成人式はというと、式典会場には入りきれずにロビーまで人が埋め尽くされ、おそらくいろんな来賓の方々の祝辞などがあったのだろうが、わいわいがやがやで何も聞こえなかった。

式典が終わると何か記念品をもらって会場を後にした、と思うんだけどもそれが何も覚えてない。それほどの感慨もなく成人式は終わった、味気ない思いでしかない。

 

ただこういう時にはつらつと輝く奴もいた。一生懸命に人込みをかき分けて中学時代の同級生を探し出し、式典のあとに開催する成人パーティに招待してくれる幹事役だった。

 

成人パーティには帰宅してから着替えて出席したと思う。みんな懐かしい顔ぶれだった。「大人になった証=酒が飲める」という、特別なことでもなんでもないことを殊更に祝い、乾杯した。たかだか数年前のことを懐かしがり、あれからいろいろあったような話しぶりで、一丁前の社交ぶりを皆が発揮していた。飲みなれたビールやカクテルのグラスを開け、慣れた手つきでタバコをくゆらせたその姿は、新橋や新宿の繁華街にいる大人たちと何ら変わることはなかった。

 

パーティの終わりに再会とそれぞれの健闘を祈り、三々五々に別れて行った。僕らは僕らのグループで二次会を開いた。懐かしの面々というよりは、そのころまだ付き合いが続いていたので日常的に顔を合わせることの多い友人らで飲みに行った。

 

その店はいまは別の業態に変わっているが、特徴的な窓がそのままなので、いまでも近くを通るとそのことは思い出す。でも何を話していたのか、全然覚えてない。たぶん芝居のこととかキャンプのこととか、あとは思い出話。

 

このさき十年、二十年と続く人生についてなんか何も考えてなかったし、想像もできなかった。自分が「オトナ」になるのはいつのことなのか。成人式を終えてもなお実感は湧かなかったことを覚えている。そしてそれを僕はいまだに探し求めている。

 

 

 

 

 

 

サバ缶食べて工場見学したいと思った話。

今日も又、つまらぬ小話をひとつ。

 

 

鯖缶が流行っているんだろうか。

 

代表的な鯖缶といえば安定のマルハ月花シリーズが真っ先に思い浮かぶが、今回は違う商品にスポットを当ててみたい。

 

 

それはニッスイの「デンマーク産さば水煮」「同、オイル漬け」。発売されてもう一年くらいたっているんだが、今日、まいばすけっとで見つけたもんで。

 

外観は、淡い配色とシンプルな鯖のイラストを配した角缶。

 

従来、実写画像あるいはそれに類するものをドンと配置して鮮度アピールが主流だった魚類缶において、あえてのパッケージングは原料原産地がデンマークであるためか国産原料品との棲み分けを狙っているとも思える。

もちろん、おしゃれ感とおいしさが炸裂して大人気となった岩手缶詰製造の「Ça va(サヴァ)?缶」の影響も大きいだろうが、その点については同社の別製品で論じるのが妥当かと思う。

 

むしろこの製品は、とにかくシンプルな素材感を全面に押し出し、日常の調理素材として使われることを念頭に、新しいマーケット開拓に投じた実験商品だと僕は思う。その背景には「チョイ足し」やバリエーションTKGなどにみられる、既製品に自分好みのプラスアルファで生まれる味覚の楽しさに、消費者が気づいたということがあるだろう。

 

これまで魚類缶詰は、味噌煮、味付け、蒲焼きなど調理品として完成されたものだった。水煮や油漬けについても同じように、開缶したらすぐに食べられることを前提としていた。それは非常糧食の考え方であり、缶詰の本来的な価値と合致するために、ひとつの缶詰で世界が完成されていることは常識だったといえるだろう。 

 

ここで疑問が湧くかもしれない。味噌煮や蒲焼などとは違って、水煮、油漬けは見方を変えれば料理素材と言えなくもないだろうと。

 

しかし僕はあえてそれを否定する。

 

この商品をこれまでのサバ水煮缶と食べ比べてみれば一目瞭然、いや一味瞭然。

原料の下処理、加熱具合、ブライン液の浸透度(ようするに塩味具合)、どれをとっても従来のものとは方向性が異なっている。

 

缶詰の製造は、巻締めにより密封した缶を加圧加熱(つまりレトルト)により殺菌することで長期保存を可能とすることが一番の特徴だ。

魚類の小骨あるいは脊椎骨(サケの骨とか最高にうまいが。)を処理せずとも、いい具合のシャクシャク加減で美味しく頂けるようになる。つまりおさかな丸ごと食べられるという点を、長らく魚類缶詰の健康的メリットとしてアピールしていたように思う。

その一方で、一般的には加圧加熱により原料魚の身は締まる傾向にある。食感がパサつく原因だ。

 

ところが。

この「デンマーク産さば水煮」は、その身のしっとり感と薄い塩味ながらもしっかりとブライン液が浸透し、魚のうまみを引き出していることに驚いた。さらに小骨が無い。缶詰だから骨くらいあってもいいのだが、驚くほど小骨がない。そして何より一番、従来のサバ水煮缶との違いを感じたのは、魚特有の臭みがほとんどないことだった。

身そのものに臭みがないだけでなく、ブライン液にも臭みがなく、開缶後の缶にもほとんど魚の臭みが残っていなかった。

 

これは大変なものを作り出したなニッスイ!と思ったものだ。

 

いまやどの缶詰製造ラインでも新鮮な原料を使うことは絶対条件だが、それでも臭みは出てしまう。いや、出てしまっている。しかしこの商品を前にすると、どれほど新鮮な状態で下処理を行い、迅速にレトルト加工に入ったのか、ちょっと想像がつかない。ぜひとも製造工程を見学したいものだ。

 

調理する人の立場に立てば、味付けに極力干渉しない食材のほうが扱いやすい。これは自明の理である。

 

従来品の塩味の強さや身のパサつき、骨の存在は素材にするにはマイナス要素と考えられるが、実はそれほど大きな問題でもない。工夫のしようはあるからだ。ならばなにが問題なのか。

そう、「臭み」だ。

こればかりは味付けではなかなかごまかせないことを調理者はよく知っている。それこそカレーのように香辛料漬けにしてしまうなら話は別だが。

開缶したときに瞬時にわかるレベルの臭みの無さこそが、素材缶詰としての確固たる方向性を感じさせるのだ。

 

臭みがないからこそ、小骨が無いレベルで抜き取り下処理されていることや、調理を想定内とした味付けが価値をもつ。

 

そんな調理素材向けサバ缶がおひとつ250円。

 

その価値に見合うだけの価格設定だと消費者が納得できるかどうかが課題だ。

長らく原料の高騰と店頭での低価格状態に苦しみ続ける水産缶詰界隈だが、新しい市場開拓が奏功して光明となるか、今後の動向が期待されよう。

 

いや~それにしても本当、工場見学したいわ、これ。

猫はどうしてそんなに僕のハートを鷲掴みするのか。

今宵も取り留めのない話をひとつ。

 

 

猫が好きだっていう人は多い。と、思う。

僕もその一人を自認するのだけれど、そもそも猫が好きだったかといわれると、小学生の頃はそうでもなかったと思う。いや、むしろ積極的に嫌っていた。

 

当時は猫といえば野良猫くらいしか知らず、アレを飼うなんて想像ができなかった。飼うといえば犬か鳥でしょ?というものだった。

 

惨い話だが、工事現場に出入りするダンプカーかトラックに轢かれた猫の遺体が、だれも片付けようとせずアスファルトの上で何日も放置されていたことがあった。毎日の通学路の横だったので、最低一日二回、それを横目に見ていた。そのうちカラスがつついたのかわからないが、だんだん跡形がなくなり、横たわった跡だけが乾いたアスファルトに影のようにこびりついていたのを覚えている。

 

猫の遺体が消えた!

この事実だけはいち早く学校中を駆け巡り、生き返った説や化けて出る説、犬に食われた説などが囁かれたが、いずれにしてもなにやら恐ろしいイメージを伴って「新・口裂け女」のような怪談にまでなった。

 

そんな体験からなのか、どうにも猫を好きになるような機会に恵まれず成長した。

 

転機が訪れたのは大学生時代。

 

僕の数少ない親友のひとりが連れてきた、一匹の子猫との出会いだった。

当時付き合っていた彼女の実家で生まれた数匹のうちの一匹が、貰い手が見つからずに

数日間預かっていたものの、彼の住まいでは飼うことができないということで、実家住まいだった僕のところにやってきたのだった。

 

手のひらサイズのもこもこしたみゃぉぅって啼く猫にゃん!⇐もう頭の中があほになってます(笑

 

しかしうちは一戸建てとはいえ、親父が動物嫌い。飼い続けるのは無理だってことで、一週間だけの約束で預かることになった。話を聞いたときは、猫なんてどこがいいんだかわからん!ってな具合で、しぶしぶ引き受けるつもりだったのだけど、いざご対面してみると、その愛らしさの破壊力の凄いこと!俺はこの子を守るために生まれてきたのではなかろうか!?そうに違いない!

 

その日からかれこれ10年ちょっと連れ添うことになるわけですが、もういろんな顔を見せてくれるたびに、好きになるしかないのでした。他の選択肢がなかった。なんかもう女性と付き合ったりすんのもメンドクサイと思うくらい、猫とイチャイチャしていた。ヤバすぎる10年ちょっと。

 

なんだろう、書いてる今も思い出してなんかキューンとなってくる。

そう、キュン死するっ!ってやつです。

いまではテレビCMに猫がちょろっと出ようものなら無意識レベルで捕捉してしまうくらいの猫狂いになっている自分がいる。

ヤバいっすね。

 

きっとね、猫たちは人を言いなりにするフェロモンを発散しているのではないかと思うんですよ。とくに肉球のあたりから。

そしてそれは常習性があり、依存性があり、猫にすべてを捧げたくなるような気分にさせる幸せな物質。

それと音波による洗脳ですね。猫たちは人間を洗脳してきます。長い間飼っていると、その子がいま何を思ってて、何がしたいのか、何が欲しいのか分かるようになる人は多いことでしょう。猫がひとこと「ミャァ~」といえば、僕らは猫の思うままに動かされてしまうんです。カリカリちょうだい、ドア開けれ、とかね。そして尻尾を自在に操って人を扇動します。こっち来い、あっちいけ、うるさい黙れとかね。

 

お猫様、ヤバいっす。たぶん人類の黒幕はお猫様っす。

 

・・・まぁ結論として、僕はお猫様の下僕ってことですにゃにゃにゃにゃぁ~~ん!

 

 

ファクサイ襲来のなが~い一日。

台風一過、晴れ晴れとした夏日がまたぶり返しました。

僕はちょうど台風15号《ファクサイ》が関東直撃の日に泊まり勤務だったので、通過前の嵐の静けさから、真っ最中のゴシャ降り風雨、そして迎えた朝、台風一過のほぼすべてを味わった一日となりました。

 

 

9月8日、すでに関東直撃情報は皆の知るところ。内心の溜息吐息はいうまでもありません。とはいえ仕事は楽しくいきたい派なので、元気づけのためにいつも聞いてるGLIM SPANKYを聴きながら、やったるでモードに切り替えての「おっはよーございまぁす!」でロッカールームへ。

職場のみんなと雑談などしながら制服に着替え、コーヒーで一服。

点呼をビシッと決めたら、さぁ勤務の始まりだ!長い一日が始まるぜ・・と思いつつも、まだまだ外はそういう雰囲気ではなく、もしかしたら関東上陸はまたしてもガセネタで、進路を変更するとか、温帯低気圧になるんじゃなかろうかとか、淡い期待を持っていました。

 

この日は、わが職場に投入された期待の新人さんの実地研修を指導しながらの勤務なので、ひとりで勤務するよりも気を使います。

これまでに関わった研修生はちょっと控えめというかシャイな方が多かった印象ですが、今回の研修生は不慣れながらもグイグイ前にでる潜在力を持っているようで、今までにないタイプ。今後、大きく成長していただきたいなと、指導にも若干の熱が入ります。

 

改札窓口から見ているぶんには、昼過ぎ頃までは嵐が来るような天候ではなかったのですが、外に出て空を見ると、幾重もの厚い雲が足早に流れていた。

その雲の流れの合間にはまだ青空も見えていたが、ひとつだけ目を引く大きな雲の塊があった。あれは・・・そう「竜の巣」!言い伝えは本当だったんだ!ラピュタは本当にあったんだ!

つい先週くらいにありましたバルス祭り。その影響がまだ残っていたのでしょうか。

今更、バルス!とかラピュタ!とか、誰にも言えないお年頃になってしまった身を哀しんだことは言うまでもありません。

 

さて17時もまわり、いよいよ夕暮れ時ともなると雲の層も厚みを増してきたのか、ホーム監視モニターの画面も外の暗さを反映し、照明の光が際立ってきます。時々、雨も軽く降り始め、もうエンジェルたちも雲の上で「漏れる漏れる!」って我慢してんだろうな状態。

それにつけても、空の暗さといい、暗泥とした灰色の雲の圧は思わず「早いな…やはり来るつもりか・・・」と心の中の厨二声が漏れてなかったらいいな、という塩梅の様相を呈していた。

 

何時ころだったか覚えていないが、19時前後くらいからかなり強い雨が降り始めた。それでもまだこのくらいは今まで何度もひどい目にあわされてきた大雨強風に比べたら何のことはなかった。ホームが濡れるとか、改札口に雨が吹き込むとか、そのくらいは日常レベル。まだまだ台風の本領ではなかった。

 

だがしかし。20時ころ、JRが首都圏各線を計画運休するという情報が伝わると現場の雰囲気も一変、本格的な台風対応モードに切り替わらざるを得なくなった。

 

このころまで窓口では、明日の運行についてどうなるのか?という問い合わせが多数あり、いずれもまだ情報が足りない状況だったので、考えられるケースについてご案内するとともに、各情報を確認していただくようお願いしていた。

 

JRが明朝より運休を発表すると、当然のように「おたくらはどうするのさ?」という具体的な問いに変わってくる。JRがそういう判断をすれば、他事業者もそれに追随して判断を下すことが多い。

主要輸送機関であるJRとつながることで、首都圏および近隣圏の鉄道網が成り立つわけなので、そのJRの動向は他事業者に影響を与えざるを得ない。

 

風がやんだら走らせればいいじゃないの、と思う。

駅の窓口改札で仕事する僕らも内心、早く動かしてくれぇぇ!とは思う。

でも実際は風がやんでもすぐには運転を再開しない。

 

それは別にもったいぶっているわけでも、ぐずぐずしているわけでもなく、風が止んだら止んだでやらなくてはならないことが山積しているからだ。

 

列車の走行に影響を与える代表的な要因は地震、火災、強風そしてテロと事故ときどき停電。

 

地上を走る鉄道にとって風というのはそれくらいに大きな因子だ。それは列車走行時の安全確保という点において、強風時ならではの危険が存在するからだ。

鉄道事業者はこれらの危険をすべて安全確認したうえでなければ、営業車両を一ミリたりとも動かすことはできない。

 

確認の方法は、もちろん人海戦術

保守職員が軌道内に降りて、目視ですべてを点検する。支障があればそれを取り除き、やはり安全を確認する。

こうした自然災害時には、前夜から待機して、その他発生し得る異常事態に即対応する態勢をとっている彼らの背中は、たのもしく、大きく見える。

 

駅で運転再開を待つ間に誰しもが見たことがあるはずだ。安全ヘルメットをかぶり、ガチャガチャと工具がカチ合う騒々しい音を立てながら、ちょっと不機嫌そうな顔をしつつ列をなしている人々の間をすり抜けて行く地味なコートをまとった数人の男たちの姿を。

彼らこそが、毎日毎晩、鉄道の安全をまもり、つくるプロ技術集団「保線区」。

親方を頂点としたチーム制で一年365日、安全のために技術を磨き、現場で汗を流す、いってみればファミリー。そんなことを同期で保線転向した人に聞いたことがある。ちょっと間違えば落命するような仕事なので、緊張感は半端ないらしい。というか話を聞いてた僕のほうが緊張したくらいだ。

駅務だってそこそこ落命する危険のある仕事ではあるのだけれども、手順を間違えたり、ボーっとしてたりしなければ、そうそうそんなことは起きない。けど保守の場合は自分が気を張っていても、他の作業中に人が間違うと巻き添えを食ったりするのでシャレにならない。

 

・・・さて、そんな感じなので、たいてい運転見合わせからの復旧は発表した予定時刻よりも遅れるのが常だ。時には予定時刻の変更もある。

これが我ら駅務にとってはたまらないプレッシャーのひとつなのだ。いつ動き出すのか分からない、案内できない、お客様にはお待ちいただくしかない。・・・あぁ無能。

 

JRの発表から少し遅れて弊社の明朝の運転見合わせ情報も入電した。さっそく告知ボードを使って、お詫びとともに明日の運休情報をお知らせする。

 

この日の夜は、各社各線の運転終了時刻の繰り上げの影響もあり、20時ころまでには当駅ご利用のお客様方はほぼ帰宅完了していたようだった。ぽつりぽつりと数名の乗降があったものの、滞留客はおらず、弊社終電時刻前にはもう誰もいない状態だった。

 

肝心の天候はといえば、時刻を経るにつれて次第に悪化し、時折、壁にぶち当てるような雨音があったりして、嵐の訪れを実感できるレベルになってきた。

 

普段は始業担当者と終業担当者は交代制なんだけれど、こういう災害時などはそういった垣根は取り払われ、各自の持てる能力を発揮してチーム一丸となって事に当たる。つまりこの日終業担当だった僕は、いわゆる終車先頭と呼ばれる、終電時刻まで勤務し、翌朝の始業から勤務する、昔スタイルの勤務ダイヤとなった。

いまでもこのスタイルのところは少なくないようだけれど、ありがたいことに弊社では

終業と始業は分離している。

終車先頭になると当然、仮眠時間が削られるわけですが、これまでの自主的な訓練により短時間の仮眠にはある程度の耐性があり、また災害時の緊張からくるテンションもあってちょっとの仮眠でもすっきりと目が覚めた。(まぁ後からガツンと睡魔は来ますが。。)

 

目覚めはアラームではなくて壁にたたきつける雨のゴシャっという音だった。そのあとアラームが鳴った。トイレに行っても外から吹き付ける雨風の音と、たぶん自転車思われる何か金属製のものが倒れる音が響き、仮眠エリアの廊下はまるで時化に遭遇してしまった輸送タンカーの狭い船内を想像させた。

 

始業担当者と合流し、さっそくホームの点検作業に入るが、もう台風ど真ん中の荒れ模様で、床面はびちょんびちょん、ゴミは散乱、掲示物はビリビリに四散するという、酷い有様だった。片付けながら、安全確認し、機器類の異常がないのを確認。助役も加わり、構内点検後、駅のシャッターを開放するが、あまりにも風雨が強いためシャッターも全開にせず中途のところで止めざるを得ない状態だった。

 

昨日のうちに、早朝からの運転見合わせを告知し、報道機関にも通知、交通情報にも反映されているので、さすがにいつもの常連の旅客はいなかった。

 

しかし。

驚くなかれ。

始業一番、「本当に朝は運転見合わせなのか?」との問い合わせがあった。それも、外に出るのもためらわれるような、傘が一瞬でオチョコになってしまうような、そんなテレビ移り映えする状況で、年配の男性が、ひとりで。

 

もちろんそれはお客様の判断で自由なことなのだが、台風が来ると「ちょっと畑の様子を見てくる」とか「ちょっと船の様子を・・」「ちょっと川の様子を・・」といった、ちょっと確認してくる系の行動をとった結果、不幸にも亡くなられたり、けがをされたりする方々を彷彿とさせた。

なんでそこまでして、確認する必要があるのか、僕には到底分からない。何か理由があるのかもしれないけど。

 

鉄道は「こんな荒れた天気なのによく来てくださいましたね!さぁさぁどうぞ、あなたのために始発列車を貸し切りにして特別運行いたしますよ!」なんてことはしない。早く来たからといって、何かがあるわけじゃない。人が来ないときに来たからって何か特別なことがあるわけじゃない。鉄道員が考えているのは、どうやって無事に、事故無く、安全かつ快適にお客様を輸送できるか?ということだけだ。しかも定時運行という前提付きで。だからいっそう、なんでそんなことをわざわざ確認しに来たのか、問い合わせの意図が僕らには理解不能だった。

言い方が良くないかもしれないが、理解不能だからと言って拒否するわけじゃない。こういう時は、意図は理解不能だけれど理解不能のまま答える。「はい、見合わせです」と。その確認をした後、その方がどうなったかまでは知らない。

 

そんなスタートを切った9日、運転再開予定の時刻が近づくにつれて、構内でお待ちになるお客様はどんどん増えていく。ホームは風雨が吹き荒れているので出る人はいなかったが、出ていたら突風で軌道内に飛ばされる人もいただろう。

 

しかし予定時刻が近づいても、風の勢いはなかなか収まらない。そして我々にとって死亡宣告のような再開予定時刻の変更が入電、構内放送と直接対応でその旨をお知らせした。当然のことだが、構内でお待ちのお客様は一様にため息のような反応と怒りの入り混じった表情を浮かべる。

それに対して意思決定権もなにもない我々は、知っている限りの情報と知識のみでお客様の不満に応えなくてはならない。中には暴言を吐く人やいきり立つ人もいたが、それは毎度のことで、ある意味では慣れっこということもある。某ハンター漫画のキ◎アではないけれど、慣れているからって痛みを感じないわけじゃないんだよ、ってなもんではあるが。

 

我々が忘れてはならないことは、多くのお客様は、状況を理解して、仕方ないことと受け入れてくれている、ということだ。ありがたいことだ。特にこの日は研修生も所定の時刻から明けの勤務を開始したので、人格否定されるようなクレームが皆無だったことは非常に助かったと思っている。若い社員の中にはそうしたクレームによって、窓口での旅客対応に嫌気がさしてしまうことが少なくないからだ。

 

しかし、一度発した情報はそれが予定であってもお客様にとっては約束、契約並みの効力を発するもので、それが守られないとなるや約束を破られた!とばかりに怒りを隠さぬ答えようのない問い合わせ、「一体、何時何分に動かすつもりなんだよ!」というような具体的な返答を求められることも増えてくる。

もちろん我々が再開時刻を指定するなど不可能な話であり、それまでと同じような内容の説明に謝罪が多めに加えられる回答をするほか手段はないのだが。そしてまたそれが相手の怒りを増幅させることもまたアルアルなのだ。

 

外はまだ風が吹きつけていたけれど、少しずつ明るさを増し、もはや強風吹き荒れるという感じではなくなってくると、もはや「台風のため~」という理由は説得力を失い始める。近隣のバスへの振り替え乗車案内なども行い、できるだけお客様の要望に沿った、納得できる案内を目指していく。

 

この日最初の明けの勤務がこうした旅客対応に追われることとなったが、研修生はよく頑張ったと思う。慣れないご案内を、一生懸命に身を乗り出して、ツールを使いながら対応しているのを真横で見ながら、僕もお客様の対応を続けた。そして研修生は僕が使うフレーズや言葉を吸収して、次の案内へと生かしていた。

 

風速が既定の数値に近づいたのだろう。我々が対応に追われる中、あの男たちが職員用通路を通って現れた。カチャカチャと装備を鳴らしてやってきた。そう、親方を頂点としたプロ技術集団「保線区」の面々だ。

僕は心の中で「やった!あの男たちが来た!もうすぐだ!あともうちょっと頑張れば必ず電車は復旧して走り始めるんだ!」というモノローグが流れた。

 

そしてようやく、保線区による安全確認を実施する旨の連絡が入り、運転開始予定時刻が現実味を帯びてくる。しかしまだ安心できない。JR山手線で倒木が発生していたからだ。倒木も状況によっては復旧に恐ろしいほどの時間がかかることがある。すべては状況次第だ。他にも架線が切れていたり、信号障害が起きていたり、レール破断は滅多にないだろうが、線路外からの飛来物や建造物の倒壊など、地上を走る電車にとっては、こうした災害の爪痕がまた怖いのだ。

 

窓口から見える外の様子は、続々と集まるお客様の姿と、だんだんと和らいでいく風、そして明らかに爽やかな日差しだった。もはや、台風一過。いままで我慢してお待ちいただいていたお客様の表情にも段々とまだかまだかのいら立ちが見え始める。

 

ちょっと待って、もう少し、待って待って!あとちょっと!そんな願いが通じたのだろうか。安全確認は何事もなく完了し、運転開始予定時刻に少しだけ遅れて僕らにも運転再開の報が、そして構内アナウンスが流れた。

 

こんな時、海外のイケてるドラマなら拍手とか盛り上がりがあるのかもしれないが、ここは現実のニッポン。みんな抱えたフラストレーションを自動改札機にぶつけていきます。あぁ、めったに改札機は壊れないけどあなたの持ってるICは壊れやすいから気を付けてくださいね~と、心の中で呼び掛ける。時々スマホを叩きつけるようにタッチしていく人もいて、逆に心配になったりする。

 

無事に運転再開したものの、我々はまだ気が抜けないのだ。

 

なぜかというと、電車を待っているのは当駅のお客様だけではなくて、それより先の駅でも同様に早朝から待っているお客様たちがいて、始発駅から順々に乗り込むので、到着時にはほとんどすし詰め状態で乗れない、といったことが予想される。でもそれは我々鉄道係員だからわかることではなく、だれもがすぐわかることだと思うのだが。

 

案の定、勢い込んでホームに行ったはいいが、来た列車を何本もやり過ごさざるを得ず、しびれを切らせて「もうタクシーで行く!」と出場する方や文句を窓口に行って行かれる方も出てきた。

本当に申し訳ないと思う。長い間待ったのに、乗り切れないなんて話があるかと。でも実際はそうなのだ。それを我々が、来た列車には乗れませんとかちょっとしか乗れませんとか、そんなことを言えるわけがない。もしかしたら混雑してないかもしれないし。実態ではなくあくまでも予測、想像の範囲のことだからだ。

 

さらに、列車のダイヤ乱れで運転再開直後は数時間にわたって電車の来る間隔が不規則であり、場合によっては何十分も待たされるなんていうことも多い。このために我々は運転再開のあと、数時間にわたって列車の遅延と戦い続けなくてはならないのだ。

 

次の列車が今どこで、何分後には到着しということを、毎度毎度にお知らせし、お客様の個別の乗車について、現状から考えられるベストルートを案内する。

 

こうしたことを朝の4時過ぎから、次の交代者まで続けるのだが、当然こういう日は交代者がなかなか到着できないのが常である。本来の交代時間を過ぎてくるとだんだんとろれつが回りにくくなってくる。説明がモッタリしてくるのを自分でも感じたり、モノの名前を言い間違えたり、眠気は感じないが機能が低下してきているのを感じるのだ。それに外のカンカン照りもあり、構内には温かい空気が吹き込んでくる。

列車の運行状況を示すモニターは大幅な遅延で埋め尽くされており、時刻表は意味をなさない状態だった。ふぅ~。

 

11時過ぎ、ようやく到着した交代者も、すし詰めの列車に揺られてヘトヘトだった。点呼は省略し、現場引継ぎにて業務を交代。やっと一息ついたのはまもなく昼をお知らせされる時刻だった。

 

ヘロヘロになりながら家路に着く。イヤホンをつけて前日の続きを聴く。流れるのはヘトヘトのハートにご褒美のロック、GLIM SPANKY「ワイルド・サイドを行け」。

 

この日、仕事や用事で電車をご利用された皆々様、本当にお疲れさまでした。

 

キャンプ、跡を濁さず

キャンプといえば焚火。

流行りの焚火台とかじゃなく、直火のほう。薪をメラメラさせながらウイスキーを一杯、二杯と夜が更けていく。その静かで緩やかな時間が最高なのです。

 

最近は直火禁止のとこが増えて~とよく言われるが、思えばかなり昔から直火は禁止が多かった気がする。


直火OKだったとこが禁止になる以外に、キャンプ場自体が閉鎖されたりするのも多いんじゃなかろうかと思ったりする。今みたいにネットで情報を引っ張れる時代ではなかったから、実際のところはわからないけど。

 

個人経営のキャンプ場はそういう意味では緩いルールだったりして、使い勝手が良かった。有名どころのキャンプ場はもうほとんど直火禁止。


僕らが良く使わせてもらってたキャンプ場は小規模だったけど、直火については何も言われなかったんだよね。だから林の中でもかまど造って焚火できた。


考えてみたら林の中は枯葉とか枝とか燃えるもの一杯だし、管理者にしてみたら山火事の心配もあるから直火禁止なんて当然だけど。しょっちゅう行ってたからなんも言われなかっただけなのか、ただ緩かっただけなのか、今になってはそれはわからない。

 

もちろん、かまど造る際にそのあたりは注意して、整地して焚火エリアを作ったり、万が一の消火用水を用意したりと気を使ってはいた。


帰る際はかまどはバラシて、かまど跡は黒く焦げ残るので燃えさしを取り除いたらまわりの土とブレンドして埋め戻し、最後は周りの枯葉まで撒いて、小さなゴミも見逃さないようチェックして、キャンプした形跡を残さない…僕らが当時、直火にこだわったのはこの一連の、撤収までの流れだった。


今風に言えば厨二的な、サバイバル術とかに影響されていたのかもしれない。でもこの、生活痕を残さず撤収する、自然へのダメージを最小限にする、ということになぜかものすごくこだわっていた。

 

そんなだから食器を洗うにしても、洗う前にお湯を沸かして油を浮かせたり、ロールペーパーでこびりつきをぬぐったりして、食べカスや油をできるだけ取り除いてから少量のエコ洗剤で洗う。

もちろん使ったロールペーパーは焚火の燃料に。ごみの持ち帰りは当然、キャンプ中に見つけた他人が捨てたゴミも。

 

なんでそんなことしたのかって?

 

自分たちが泊まるところが他人の手あかがビッシリ残ってるなんて嫌だったから。


僕らはキャンプという行為に、非日常の冒険感を求めに来ていたのに、着いたところが、みんなが生活している広場だなんて悲しすぎるじゃないか。

やはり冒険というからには、前人未到の、まだ誰も見ぬ世界を感じたい。子供心にそう思っていたんだな。だから許せなかった。誰かが残した焚火の跡や飲み干した空き缶、スーパーのビニール袋、おつまみの袋の切れ端。とにかく他人を感じさせるものが、僕らの純真な冒険心には耐えられないほどに不純物だった。

だからせめて僕らは痕跡を残してやるものかと。十分楽しんだうえで、僕らがそこにいたということをだれにも知られないように。

 

という、野営のようなキャンプが殆どだったなぁ〜と、昔よくお世話になったキャンプ場をGoogleマップで擬似キャンプの気分を味わおうとしたら、廃業していた。


ちょっと泣けた。

 

 

魔法のほうきに乗って、ここまで来た。

今週のお題「わたしと乗り物」

 

少年時代の僕にとって自転車は自分の小さな生活圏から飛び出す魔法のほうきだった。

 

初めて買ってもらった自転車は、おそらく子供用の補助輪付き自転車だったことは想像に難くない。でもあんまり、というかほぼ記憶にない。それも仕方のないことで、そのころはまだ自我と現実の葛藤がなかったからだ。単純にたのしい乗り物でしかなかった。

 

自転車が魔法のほうきになったのは、ジュニアスポーツ自転車というモノを買ってもらった時だった。学校で一番仲の良かった子が持っていたものと同じ自転車が欲しくて仕方がなくて、クリスマスプレゼントで買ってもらったと思う。メタリックブルーの鮮やかな車体だった。

 

後輪が5段か6段変速になっていて、見た目はちょっとロードバイクっぽいんだけど、変速器のレバーがまるで車のシフトレバーのような形をしているシロモノだった。トップチューブに取り付けられていて、あたかもスポーツカーを運転するような気分にさせた。左右のライトが点滅するボタンもあって、これはウィンカーそのものだった。

まぁちょっとググってもらえばそのメカメカしさと少年心をくすぐったわけが分かってもらえる、かもしれない。

 

当時はちょうど反抗期に差し掛かる時期でもあったので、とにかく家から出たくて仕方がない年ごろでもあった。

親から買ってもらった自転車で親元から離れようという、甘ったれで身勝手な スタンド バイ ミー 。そいつにまたがってシャコシャコとペダルを漕いでいるといつの間にか隣町のさらに隣町の見知らぬ土地へ着いていたことが数えきれないほどあった。

 

どんどん知らない風景が広がって、訪れたことのない町の公園や、どこだかわからない団地の最上階から眺める夕日とか、なんだかそれだけで冒険した気分になって「俺ってスゲー!ひとりでこんなとこまでこれるじゃん!」という自己満足に浸っていた。こんなとこ、ってそこがどこだかわからないのに、なんだかもうものすごい遠くまで来たような、そんな感覚。まさにその時、自転車は僕を解放する魔法のほうき、望むところに連れてってくれる頼りになる相棒だった。

 

だが、夕日が訪れる頃は、つまり、各家庭では暖かくておいしい晩御飯の支度が始まるということであり、方々から今日の献立の食欲そそる香りが流れてくるということ。加えて、あたりが暗くなるにつれ増してゆく漠然とした不安によって、家への帰巣本能が強まっていく。

そして、ついさっきまでの反抗心と冒険心からの独立欲求を満たしていた「自立した俺」「成し遂げた俺」は「はやくおうちに帰りたいボク」という、お可愛い小学生に引き戻されてしまうのだった。

 

途端に不安に駆られ、いそいそと来たであろう道を戻るけれども、勢いにのって走ってきたのでその道が正しいかは分からない。うっすらと記憶をたどって進んでいく。そんな時でも自転車は決して裏切らなかった。

一生懸命ペダルを漕いでいたら、絶対帰れるから大丈夫だと信じていた。事実、地図もなしに見知らぬところへ何度行っても、必ず晩御飯の前には家に帰れていた。

 

それから僕は、何台もの自転車を乗り継いでいま現在、ここまで来た。

 

そのほとんどは日常生活の中に埋もれていったけれども、自転車に乗るたびに沸き起こるあの冒険心のような、どこまでもいけるような気持ちになるのは同じだった。それは自転車が「魔法のほうき」だという僕にとっての事実があったからだろうと思う。

 

何処までいけるか限界を知りたくて、早朝から富士山目指して西へ西へと尻が痛くなるまでペダルを漕いで漕いで漕ぎまくり、ついに力尽き、クタクタになって、家路に着いた深夜2時。いつか富士山リベンジを誓った。

受験のストレスで眠れない真夜中、家族に気づかれないようひっそりと家を出た。ただ波の音が聞きたくて海までペダルを踏んだ。埋め立て工事が続いていた13号地(お台場)から、朝日とともにみた景色は望んでいたものとは違っていたけど、いつの間にか不安な気持ちは消えていた。

電話で聞いてた彼女の悩み相談にどうにも言葉では足りなくなって、夜中の国道をひた走って会いに行った。会えば彼女の悩みをどうにかしてあげられると思っていた。人としての力のなさを思い知った。やるせなさを振り払うようにギアを上げて全速力で、人も車もいない道路を飛ぶように走った帰り道、信号の明かりがにじんで見えた。

 

思えば、僕にとって自転車は望むところに連れてってくれる魔法のほうきで、束縛やしがらみ、不安から解き放ってくれるリベレイターで、あてどもない旅の相棒だった。

 

いつしか自分自身の考え方が大人の社会に慣らされていくうちに、冒険心は内側にしぼんでいった。束縛やしがらみを、そういうものだと諦め、受け入れることが増えるうちに、ほうきの魔法は解けていった。

 

そういうもんだと、思っていた。

 

けれど。

 

僕は一年前に、最新の「ほうき」を手に入れた。

 

こいつにまたがった瞬間、僕の世界は、また一気にグンと広がった。

十数年ぶりに、ペダルを踏みこんだ。

 

グンっと進む。

 

僕の、進みたい気持ちに応えて、力強く走ってくれる。

気持ちが高ぶってきた。どこまでも漕ぎ続けたくなった。

 

 いつの間にか僕はまた、ほうきの魔法にかかっていた。

 

かつては自分自身を解放してくれるものだった。いまはそれとはちょっと違っていて、固まりかけた自分を拡大してくれる、新しい発見とか喜びをもたらすものになった。 

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きょうもまたこいつに乗ってどこに行こうか、ワクワクする。

もう、いつまでも、このほうきの魔法が解けない自分でいたいと思う。

台風から贈られた時間

就職して何年目の夏だったか。

 

家族で伊豆を旅行した時のことだ。

 

台風が近づいてきていたが、日程的にはまだ大丈夫だろうと思っていた。そもそも仕事が忙しい中で、あまり興味もわかなかったので、中止しても構わないくらいの気持ちだった。旅行の日程その他もろもろは父に任せきりだった。

 

シャボテン公園やいくつかの博物館をはしごしていた。ホテルの温泉が主目的ではあったので、昼間の時間を過ごすには事足りたがたいして興味もなかったので記憶には残っていない。公園内を散策していたら、フラミンゴのような大型の鳥が2~3羽、公園の空を気持ちよさげに飛んでいた光景を目にして、あんな放し飼いで大丈夫かと不思議に思ったことだけは印象的でいまも覚えている。

 

旅行は二泊の予定だったが、帰る日の朝に台風が直撃したため、電車が終日運転見合わせとなってしまい予定外の一泊をすることとなった。とはいえ、外は暴風雨で出られず、ホテルの温泉につかるほかやることがない状況では、暇を持て余すしかなかった。

 

ホテルの付近には、その地元の有名人の屋敷跡を保存した史跡見学くらいしかなかったが、暇すぎたので雨風が弱まるのをみて出かけた。うん、行ったこと以外は記憶にないくらいなので、自分にとってはそのくらいのものだったのだろう。

 

夕食前にはホテルに戻り、温泉につかって、僕と弟はゲームコーナーで100円玉を積み上げてゲーム三昧。残念ながら、期待していた卓球台はなかったが故の選択だ。

当時はスマホはもちろんニンテンドースイッチだってPSVitaだって存在しなかったのだから仕方がない。(あってもゲームボーイくらいか)

 

この日は一日中、父がテレビを独占していて、母は昼寝と読書。僕らは暇つぶし、という行楽地ではありえない過ごし方だった。

夜になってもテレビの天気予報をチェックしつつ窓際でタバコをくゆらす父と、あまり動じず帰り支度をする母の様子を横目に、照明を落とした薄暗い部屋で僕と弟は寝床にはいった。

 

暑さから夜中に目が覚めて、家族みんなが寝ている気配を感じつつ、そっと温泉につかりに部屋を出た。3時ころだったか、静まり返った館内でスリッパの音をペチペチたてながらひとっ風呂浴びに行った。

 

温泉につかりながら、ひとりになったせいかとても内省的になった。

 

自分自身は就職してからというもの、仕事のことが頭から離れないような状態だったし、こんなにゆっくりして家族を一緒に過ごしたのは数年ぶりだったことを思い出していた。

ひとつ部屋に家族が全員揃うなんてことは、日常ではほぼ無くなった年ごろだっただけに、ふと懐かしいような、またこの先、何回もはないであろうその光景が妙に貴重な時間のような気もしていた。

台風が直撃して足止めされなければ、たぶんこの家族旅行も数年のうちに記憶から遠ざかっていく運命だったろう。アクシデントに意味を見出すとすれば、これは天から贈られた時間だったともいえるのだろう。

 

風呂から上がって部屋に戻り、静かに布団にはいりながら僕は、このたいして刺激もなく面白いわけでもない家族旅行の計画をほぼ強引に決めてきた父にちょっとだけ感謝しつつ、できるだけいつまでも、みんなが健康に楽しくいられるように願った。

 

翌日の朝は台風一過の天気だったと思うが、そこから先は覚えていない。大変だったね~とかいいながら帰ったのだろう。

僕にとって大事だったのは、あの予定外の一泊ということだ。

当時の僕はまだ昔を懐かしむような年齢でもなければ、その旅行の後もまだまだみな元気で、いろいろなことがあり、それは今でもそうなのだが、子供が成長して大人になるにつれて変化していく何かを、初めて自分のこととして感じたのだと思えるからだ。

 

台風が近づくと、そんなことが思い出される。