kunirov’s diary

書きたいこと書いてます

お坊さんも大変ね

祖父祖母の法要があった。

 

暑いさなか黒づくめでいるのは、始まる前からうだるような気分になってしまうが、そこは無心に心頭滅却すれば火もまた涼し…くなれるわけもなく、じわじわと額に汗していた。

 

荘厳な仏の世界観を表現した本堂でご住職とお弟子さんが供養の読経をする間、参列した我々も不慣れながらも経文にふられたルビを目で追いながら一段弱い声で追い読みした。いつもの光景だ。

 

ひととおりの儀式も終わり、ご住職が軽い法話をされた。内容は故人への感謝の気持ちを我々はどうやって示し、伝えたらよいのか、というようなものだった。簡単に言えば(間違ってないことを祈るが)こうした供養を執り行うことを通して故人への感謝の思いが伝わりますという、まぁそうかもね、というものだった。

 

僕がなんとなく不思議に思ったのは、その法話の締めくくりに、ご住職が我々に対して 

「ありがとうございました」とおっしゃったことだ。しっくりこなかった。

 

ブッダが貧者の家に托鉢をしに行く話を思い出した。

 

托鉢って坊さんが鉢を持って一般市民から米や金銭などの布施を受けることで、このとき布施を受けた坊さんは決して「ありがとう」などとは言わない。なぜならこのとき布施をする人が救われているからだ、と僕は理解している。

場合によっては数行の経文を読誦する坊さんもいるかもしれない。でもそれは経文や供養に対しての、サービス対価として布施を行うということではないのだ。

 

托鉢の話と法要の話を同レベルで語ることは誤解を招きかねないし、僕にそれを語ることなどできないのだが、少なくとも僕にとって僧侶とは、その姿を通して仏様を感じることのできる存在であってほしいと思う。

そう思っているせいなのか、法要を執り行ったことに対して「ありがとう」と言われてしまうと、なんだかおかしな感覚に襲われてしまう。

 

自分ではできない故人の供養をして頂いてありがとう、というのは本来、我々の気持ち

であって、ご住職からありがとうと言われたら、下世話な話だがやはり商慣習としてのありがとうございました、の意味合いをちらりと感じてしまう。

 

いや、積極的にそういう意味で使ったわけではないのは分かっている。ただの習慣としてのあいさつ語だってことは分かっている。

分かっちゃいるが、ちょっとフランクすぎやしないかと思う。たまたまこのご住職が気さくな方だからというのもあるだろうが、最近は、お寺界隈の檀家減少などの運営、存続問題が顕在化しているだけに、妙に生々しく感じてしまうのだ。

 

お坊さんだって人の子、霞を食って生きるわけでなし。

なかなか難しい。