選挙、決断する勇気と苦み
参議院選挙が行われる。
贅沢なことに、くれとも言っていないのに20歳を迎えた年に選挙権を与えられ、社会のことを何も知らずに投票所で名前だけ知っている候補者に票を投じたのが初めてだったと記憶している。自分がこの社会の一部となったことだけはじんわりと感じられた。友達に勧められて初めてタバコを吸ったときに、大人になったんだなぁと浸った自己満足よりも薄い感覚だった。
それは初めてタバコを吸ったときは自ら進んで「大人になりに行った」のであって、選挙権を得たことと投票したことは頼んでもないのに「大人になっちまった」結果だからだろう。
昨今は選挙といえば某グループの総選挙を筆頭に、ゆるキャラ総選挙(グランプリが正しい。来年2020年開催がラスト)、カワウソ総選挙、カレー総選挙、ホニャララ総選挙…と様々な分野で選挙が行われるようになった。
「選挙」という言葉が使われるようになった、という方が実態かもしれない。
いろいろなものが選挙という形でランキングされる。
それには、投票者が自分にとってそれがいいものと思えるかどうかを基準に票を投じること、またその投票行動によって自分が参加しているという直接的な満足感を感じられること、その結果が誰かの悲劇を招かないということがすでに分かっている、という前提が言外に含まれている。だからその結果は大抵、ピュアで幸せなものだ。
選挙というものは、その過程において普段は散らばっている雑多な情報を集約し、単純化する。ある面では個々の思考、価値観をも単純化させていくプロセスかもしれない。単純化された思考や価値観は人を熱狂的にさせ得る。
選挙を模したそれらイベントは、立候補者にとっては他者とは重ならない独自性という自身の魅力を強力にアピールすることが一大事だが、それと同じくらいかむしろそれ以上にその選挙を成り立たせている世界を内外に発信して押し広げていく、そういった盛り上がりを見せていくことを主催者は期待する。
そしてこの時、主催者と立候補者は同じ利害関係にある。さらにそこへ参加してくる投票者も、少なくともその世界を共有する者として利害関係の一部に関わっている。(関心のない者はそこに関わってこないという暗黙の了解ではあるが。)
だからその内部においては排斥的、利己主義的なものは存在しえない。予定調和的ではあるけれど、投票者がとても平和な熱狂に浮かされることが許されるのだろう。
うまいかまずいか、かわいいか、きれいか、かっこいいか、すきかきらいか、イェスかノーかという二者択一できる世界はとても気楽で幸せだ。
たとえ悩んだり他者と議論してもそれ自体が楽しいプロセスとなり得る。なぜならその理由について十分に理解でき、自らの意見を主張しあえるからだ。
だから選挙型イベントは楽しいのだ。
翻って近づく国政選挙はどうか。
現実の選挙における候補者と報道サイドの熱狂ぶりに対して、政治経済に明るくない我々一般人にとっては、政治上の抱えている問題があまりにも複雑すぎて二者択一どころか十分な理解や自らの主張などほとんどできないにも拘らず、見も知らぬ候補者に票を託さねばならないというフラストレーションがある。場所によっては自分の考えを反映するとは思えない候補者しかいない地域もあるかもしれない。(競馬でいえば当日の出走表だけを手にして見知らぬ馬しかでないレースに大金をぶち込むようなものか。)
なんならその候補者が言っていることや目指す方向が正しいのかどうかを吟味すらできない状況で投票という責任ある行為をしなくてはならない。そう思うといつも選択から逃げ出したくなる。
未来の政治、社会づくりにおいて自分自身が間違った選択をしたという後悔をしたくないがため、いつも正論側にいたいというつまらぬ保身のためかもしれない。
その他にも、票を投じた候補者が落選して自分の票が無駄になるのが嫌だとか、せっかく当選しても失言やらスキャンダルやらを起こされる(そのような人物選ぶ自分の見る目のなさを感じる)のが嫌だとか投票が嫌になる理由などはいくらでもある。
でも、そうは言いながらも投票はするようにしている。
この国にいまの選挙制度が確立し云々とか世界にはいまだ普通選挙が施行されていないところが云々とか、政治に参画できることの凄さとかなんとかそういう難しい話はもう
眠くなるので横に置いておくとして(きちんと説明できるような知識がないから)だ。
自分がもしかしたら間違った選択をしたかもしれない。未来の自分が恥ずかしく思うかもしれない。けれども選択できるのは今だ。なら必要なのは決断する勇気だ。
もし間違ったと思うならば、それを次に生かすしかない。ピュアで幸せな選挙イベントとは違う、この苦み走る思いを抱えながら、僕ら「大人になっちまった人」たちは生きてゆくのだ。